しなやかにしたたかに―あつみロビーコンサート20周年に寄せて―


 あつみロビーコンサート、20周年おめでとう!
ひと口に20年といっても、20年は決して短い歳月ではない。恥かきっ子として生まれた私の娘が昨秋ちょうど二十歳になったが、その図体は大きくなりすぎてとても抱っこなどできないし、なにより、臭いから近寄らないで、と憎たらしいことをいう。黒かった私の髭は真っ白になり、頭髪は雑木林がスダレになった。7300余りの日々の積み重ね、そう思うと気が遠くなる。
 などと書くと、部外者からの祝辞のようだが、実は私はスタッフである。まるで役に立たない端くれだが、スタッフ歴は10年くらいになるだろう。 秋口からに冬にかけて開催するロビコンの慣例を曲げてもらって、2012年の夏、アフリカはジンバブエからやって来た、ジャナグルアートセンターの子供たちの歌と踊りの会のとき、すでにスタッフになっていたのか、これを機にスタッフになったのか、定かではないが、ともかくも私は、ロビコンの歴史の後半の10年にかすかに関わってきた。
 と書いてきて、待てよ、もっと前から深い関わりがあったではないか、と思えてきた。
渥美文化会館ホールができたのは、1994年4月、日本中に似たような施設が乱立したハコモノ行政の一つだったが、「立派なハコはできたのですが、入れる中身に困っています」、まだ30代半ばの町職員の言葉をきいて、それにこたえる形で、NHK交響楽団のコンサートマスターだった山口裕之さんに声をかけ、1995年秋にクラシックコンサートを開催した。目玉はシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」。ポスターも地元の力でつくろうと、福江高校美術部のOB展に出向き、青山義武君の作品に感じるものがあって、彼に原画を描いてもらい、レイアウトは、今は亡き荒木弘道さんにお願いした。
 「このへんでクラシックのコンサートなんかやっても、来るのはせいぜい50人ですよ」、あるところでこう言われて、反骨心に火がついた。日頃演歌しか聴かない、シューベルトとシューズベルトの区別もできない、無骨な友人たちにも強要して、700席を完売した。
 「ここの音響は渋谷のオーチャードホールやサントリーホールに匹敵しますね」、リハーサルのあとで口をそろえて、我らが文化会館ホールを絶賛してくれた、N響の手練れたちの演奏は乗りにのって迫力満点、今ではクラシック=古典と奉られているけれど、往時は聴衆を熱狂させる活きのいいロックのような、同時代の音楽だったのだと思い知った。
 「すごかったですね、子供たちも感動していました」、のちに田原市の教育長を務めることになる、当時は不惑前の花井隆さんが出口のところで、笑顔満面の小学生たちに囲まれながら声をかけてくれた。
 その後2回、N響演奏会に関わってのち、私は手をひいたが、「ここ渥美でもクラシックの音楽会ができることがわかった」と、弘道さんが渥美音楽同好会を立ち上げ、いわばバトンを引き継いでくれたわけだが、2001年5月、豊橋出身で今や世界的パーカッショニスト、当時はまだ無名に近かった加藤訓子さんのコンサートを主催したとき、前売りを1000枚以上売ってしまい、あぶれた客にゲネプロに来てもらって急場をしのいだと聞くが、これは例外中の例外、クラシック音楽は集客がむつかしいのである。
 あつみロビーコンサートは、そのむつかしいクラシック音楽をメインに、20年の長きにわたって、107回のコンサートを営々と続けてきた。それだけでも尊敬に値するが、今回驚いたのは、そのクオリティの高さである。渥美混声合唱団の歌をじっくり聴いたのは、失礼ながら今回が初めてだったが、お世辞抜きで感動した。 クラシックの声楽の発声法は日本語に合わないと思っていた。辛島某を聴いても中丸某を聴いても日本語が立ち上がってこない。旋律に意味が乗らないのだ。音の上で意味が滑って伝わってこないのだ。合唱でも事情は同じでほとんど聴いたことがなかった。
ところが今回、日本語が旋律に乗って伝わってきた。米粒が立って輝いているのが上等なごはんというが、言葉がくっきりと粒だって意味をもって聴こえてきた。日本語が活き活きと躍動していた。
 ロビコンが20年間続いてきた理由がわかったような気がした。
 ロビコンを運営するのは渥美混声合唱団の皆さんである。そして皆さん、決して若くはない。最年長のキヨちゃんこと宮川潔さんは、たしか今年アンブレラエイジのはずだから、20年前には還暦手前、合唱の経験はその時点で30年近くあったとはいえ、ロビコンの運営に関しては、六十の手習いだったわけで、ほとんどの皆さんが中年からの晩学事始めだったはずである。どうやらそのあたりに秘密がありそうなのだ。
 件のヤマちゃんが名古屋によく来ていた頃、椙山女学園のオーケストラの指揮をしてくれたことがあって、たった2回のセッションで彼女たちの出す音が劇的に変わったのを見て、いや聴いて、驚いたものであった。技量がいきなり向上するとは思えないので、指揮者の音楽理解の深さが演奏者に乗り移るのだろう。音楽は時間と場所を共有するところから始まるが、場をつくり調えること、演奏者たちに世界観をしめすことが指揮者の仕事なのだろう。
 あるいは、森絵里さんは高校生のとき、バレエ団のプリマとしてロシアに行って踊るほど、すでに技術的には秀でていたが、もう一つ表現力に欠けるといわれて、広く文化を学び内面を深めるために椙山女学園大学に入学、熊川哲也バレエ団をへて、現在は「高嶺の花のバレリーナ」として第一線で活躍している。
 芸術表現には技術だけでなく、内面的な何かが必要なのだろう。
 今回、私が渥美混声合唱団の歌声に感動したのは、そこにある何かが、粒だった日本語として聴こえてきたからだろう。そしてその何かは、ロビーコンサートの運営を地道に続けてきたことで培われたのではないだろうか。コンサートを企画しチケットを売るには、大げさにいったら、自分たちの立場を世界に向けて語らねばならない。それは同時に、自分に向かって語ることでもある。語るのは言葉である。とうぜん言葉が磨かれ、内面が深められる。いい歳をした大人の道楽だからこそ、そこに滋味が感じられたのだろう。
 あつみロビーコンサートは、渥美混声合唱団を母体として発足したが、合唱団はロビコンを育てることで成長した。表裏一体の関係を保ってきたからこそ、20年間続いてきたのだろう。そしてその中心にいて、言葉を紡ぎ指揮をとってきたのが森下静子さんである。
私が3年、混声合唱団の一員でもあった弘道さんが5年、それを女の細腕で20年、そしてこの合唱の素晴らしさ、その手腕には驚嘆せざるを得ないですね。ロビーコンサートと称して、肩肘張らずに手作り感をもって続けてきたところに、かえって強かさを感じます。同世代の、美人のサザエさんかと思っていたけれど、どうやらあの方は只者ではないようである。
 さて2023年4月から「あつみにこんさーと」と改称するという。渥美今世、いや混声合唱団はさらに高みを目指すのだろうか。20年後、ホワイトエイジをこえて、舞台の真ん中に杖にすがってやっと立ち、だが颯爽とうたうキヨちゃんの姿がチラチラと目交いに浮かんで、楽しいような、怖いような、冬の白想にひたりつつ、今後のさらなる精進とご成功をお祈り申しあげます。

 P.S.
 ところで、6年前にバッハを弾きに来てくれたチェロの四家卯大さんから、翌年6月に連絡があって、名古屋に行くからマリオットアソシアホテルで飲もうという。前年は我が家に泊まったのになんと贅沢な、とホテルはよして、私の行きつけの蕎麦屋で飲みながら聞くと、Mr.Childrenのドームスタジアムツアーに帯同して、その第一弾としてナゴヤドームで演るというのだ。桜井某に紹介したいし、招待券を好きなだけ差しあげます、という。ミスチルとは互いのデビュー当時から30年の付き合いで、桜井は天才ですよ、という。名前くらいは知っていたが、ご無礼して、招待券を4枚横流ししたが、行った4人は口々に「すごかった、3時間半休みなしで、クタクタに疲れたけど元気になった」と、ワケのわからんことをいっていた。
 一昨年の秋には、バレエとコラボするので来てください、との連絡。名古屋芸術文化センターの小ホールで、中村恩恵さんと酒井はなさん、日本を代表するダンサーたちとの共演である。「瀕死の白鳥」のオーソドックス版と日本人作家による死因告白版が演じられ、後者ではチェリストとの愉快な掛け合いもあって、白鳥の末期なのに爆笑の連続。白鳥の死因は、知らないうちに摂取したプラスティックゴミの毒素蓄積による食道癌。笑いの中にも環境問題を考えさせる、まさに毒を含んだ快作であった。ユーモアと重厚、四家卯大の真骨頂であった。
 日本中を飛びまわり、時には世田谷公園の露天で演奏し、時には麿赤兒さん(今では大森南朋のお父さんとして知られる、世界的な舞踏家にして役者、渥美古田メロンの愛顧者でもある)の大駱駝艦の舞台に呼ばれて演奏する、引っ張りだこの、自称土着的チェリスト、ジャンルをこえた音楽家である。
 また渥美に来てよ、とささやいたら、
 渥美、大好きです、いつでも行きます、といっていた。
 ユーモラスにして重厚、そして雄大、四家卯大のあのチェロの調べを、こんどは渥美文化会館ホールの大伽藍の中で、もう一度聴いてみたいものである。
 
小川雅魚               

 オガワマサナ:1951年、小中山に生まれ、中山小学校、福江中学、福江高校をへて、1970年、一橋大学に入学。滑り止めだったせいか(授業料が安かった)、授業には出ず、本を読み、酒を飲み、叔父の鰻屋で鰻を焼き、時々翻訳をやりながら、くすんだ青春をやりすごす。当時交流のあった人々が、その後のあまり劇的でないけれど「脇道寄り道廻り道」の人生航路の折々に、畸人変人怪人となって出没し、退屈する暇がなかった。1982年から2022年まで椙山女学園大学教員。共訳書に『ホロコーストの文学』(晶文社1982年)、『田舎と都会』(晶文社1985年)。著書に『潮の騒ぐを聴け』(風媒社2014年、ちぎり文学賞、K社エッセイ賞最終候補、「本の雑誌」40周年記念号で坪内祐三氏によって2014年度ベストエッセイに選出)、『金曜日の戦い』(風媒社2022年)。地域雑誌「渥美半島の風」代表兼編集長。そしてなによりも、あつみロビーコンサート端くれスタッフ。